第一回目のお宅訪問は、港北ニュータウンの区画整理事業に日本住宅公団職員として深く関わり、現在も勝田・茅ヶ崎連合町内会長として日々まちづくりにたずさわっていらっしゃる清水さんのお宅に、おじゃましました。
茅ヶ崎公園の西に広がる一角は、早い時期にニュータウンの開発コンセプトを体現した住宅地として造成されたエリアです。
石組に生垣の伝統的な日本家屋、オープンな外構のしゃれた洋館…。いずれもどっしりとしていながら明るくのびのびした雰囲気が漂うお宅、広々した敷地と豊かな緑とのコンビネーションがとても気持ち良いまちなみが続きます。
お目当てのお宅はそんな中にありました。重厚な石組の上には年季の入ったザクロやしだれ梅の植木がすてき。石段を何段か上がると手入れの行き届いたお庭から玄関へのアプローチが続きます。真ん中に玄関、その両側に陽だまりが魅力的な縁側が広がりを見せています。
「港北ニュータウンの区画整理の仕事に関わった初め頃は千葉松戸から通っていたんです。東京を横断して自由が丘で乗り換えて大井町線・田園都市線という経路、まだ、田園都市線も全線通っていなかったぐらいの時だから昭和50年の前ですね。」
(田園都市線は昭和41年(1966年)長津田まで・昭和51年(1976年)つきみ野まで開通・中央林間までの全線開通は昭和59年(1984年))
「その後つきみ野に住んで、江田にあった事務所に通っていたこともありました。今の荏田南や荏田東付近は、青木さんというリーダー的な存在もあって地元のまとまりも良く、比較的早く区画整理のめどが立ちましたから、昭和58年(1983年)には公団のいくつかの大規模集合住宅ができました。都筑区のガイドマップを見ると、この荏田付近の公共施設(小学校、中学校、グラウンド、公園・緑道)の配置は、ニュータウンの開発構想時の設計思想を一番良く反映しているといえます。」
港北ニュータウン計画は、昭和40(1965)年、当時の飛鳥田市長の提唱した6大プロジェクトの1つです。昭和49年(1974年)区画整理事業認可が下り造成工事が始まりました。清水さんご自身がこの事業についてまとめたページを是非一度開いてみてくださいね。http://hayabuchi.chips.jp/
(早渕川ファンクラブHP中の「まちづくり」へ)
「このニュータウンに住むことを考えてはいたけれど、昭和64年(1989年)か、茅ヶ崎のこの辺の区画が宅地として整備されることになった頃、ニュータウン事業を一緒になって進めてきた地元の金子さんが、たまたま、松本さんというここの地主さんの土地を買わないかと、声をかけてくれて、ここに決めました。彼の誘いがあったことが決め手でしたね。」
「でも、ニュータウンの環境この雰囲気を気に入って土地を探そうという人も多いようだから、人生めぐりあわせですね。同僚で、不動産屋をいくつも回ってニュータウンの土地を見つけた人もいるけれど、僕の場合、ニュータウンの仕事をしていたこと、金子さんに声をかけられたこと、みんな運みたいなものですね。」
─ゆったりとしたまちなみですねぇ。
「我が家で90坪あります。当時、坪80万から90万円くらいだったと思うが、開発の当初、ニュータウンの住宅地の理想とした一種住専(現在の第一種低層住居専用地域に相当) 、80坪(約260平米)、40%の建ぺい率、60%の容積率というまちがここで実を結んだことになります。」
「ただ惜しむらくは、ここでは荏田のように小学校2つ、中学校1つ、その間を公園のグランドでつなぐというエリアの設計は出来ていません。グランド用地は換地のための用地として変更されて、今では宅地になっています。ここに限らず、ニュータウンの開発も後の方になると、景気後退で、予算もひっ迫してきたこともあり、当初の計画とはずいぶんかけ離れた実態になっていますね。」
(ニュータウン内に27小学校、12中学校が計画されていた。その後開校したのは15小学校、6中学校にとどまった。都筑区全体の現在の数は22小学校、8中学校)
─お隣では建売住宅を建てるのでしょうか工事が始まっていますね。
「ここと同じくらいの敷地を半分にして2軒建つようです。いわゆるミニ開発よりはまだ広いし、地主さんたちの経済生活にはあれこれ言えませんけれど、今では、ニュータウンの宅地の基準がずいぶん矮小化されたりテラスハウス等で細分化されてきていますね。」
・建物の設計コンセプトは「ふるさとをしのばせるまちづくり」に有り
どこか懐かしいたたずまいの玄関を入ると、意外にも頭上に吹き抜けが…。木をふんだんに使った玄関ホールは、凛とした趣です。右手のドアを開くと1階の東側すべてが30畳はあろうかという広ーいLDKです。270cmはありそうな天井高と壁の横羽目板張りがとても広がりを感じさせるリビングです。それとは対照的に左手は床の間、次の間が並ぶ和室、その奥には清水さんの「お城」とも言うべき書斎。床から天井までの書類、書籍に圧倒されました。
「前につきみ野の物件を手がけたときに知り合った藤沢の大工さんに頼んだのが、玄関が真ん中で左右対称の日本家屋でした。」
「ニュータウンのまちづくりの3大理念というのが「乱開発の防止」「都市農業の確立」「市民参加のまちづくり」。この3つなんだけれど,それを具現化するときの基本方針としては、「緑の環境を最大限に保存するまちづくり」「ふるさとをしのばせるまちづくり」「安全なまちづくり」「高い水準のサービスが得られるまちづくり」の4項目が設定されたわけです。」
「そのうちの一つ「ふるさとをしのばせる」というのをかたちとして考えたとき、農家にヒントを得た昔ながらの家のつくりに思い至ったわけです。左右対称の大仏殿的なの。広縁みたいに縁側が座敷と庭との中間領域となるような伝統的なつくり。ただ濡れ縁にしたのは建ぺい率に入らなかったからなんだけれど。」
「日本の伝統的なつくりの家が並んでいたら、「ふるさとをしのばせる」ような味わいがまちなみからもかもし出されるのではないかしら。そんな思いが設計プランに込められてはいるんですよ。」
「庭を整えるだけの余裕はなかったから、いろんなところから木や花を調達してきては自分で植えたり、石を組んだり。」
和室の鴨居の上には、その昔、雑司ヶ谷で叔母様が営んでいた少年寮を訪れた
日本画の巨匠、橋本雅邦、川井玉堂らが
お礼に描いたという「寄せ書き」がさりげなく飾ってあった。
即興で筆を執ったものか、筆致は軽やかだが、墨色は豊か。
・まちづくりは人の力で成否がきまる?
─清水さんは数年前から勝田・茅ケ崎連合町内会長として、ご自身も加わりつくりあげてきたまちに今も関わり続けていますね。
「都筑区も去年20万人を超えたというから、15.6万人はどっかからか来た人ですもん、いろんな人がいますよ。ご近所づきあいしないといけないです。しかし、どんど焼き一つとっても、若い人たちはどう参加していいのか分からないみたい。お客さんになってしまっていて、自分たちのまつりやイベントを担うまでには至ってないこともあります。町内会への参加率もな かなか上がらなくなっている。」
ご自宅前で
「ニュータウンの事業は、地元の幾人かの粘り強い、あきらめない、働きかけがあったからこそ可能だった。そういった熱い人がいることによってコトが動いていく。最後は、人なんだな。」
「毎月町内会の新聞というか通信を、作っているけれど、読んでもらっているのかな。文章は読まないって人も多いらしいけれど、楽しみにしていると言ってくれる人もいます。どうやったら若い人たちも参加してくれるようになるのか。ネットを活用したりできればいいのかな。」
─都筑区は30, 40代のお父さんたちはもちろんですが、年配の方でもIT関係に強い人が多いまちだと思います。そういった方たちをその気にさせる法を編み出すようなこともこれからは求められていくのかもしれませんね。
「区内にある東京都市大が、町内会のホームページ作りを支援する講座を開いてくれるなど、いい機会はこのまちにはいっぱいあるんでね。そういったことを知ってもらうことですね。」
・おすすめはやはり緑道。
─お宅のすぐ近くにはボリュームのある緑が魅力的な茅ケ崎公園が広がっています。
「茅ケ崎公園の愛護会で花壇の手入れをしていると、緑道を歩く人たちが声をかけてくれます。都内の文京区からとか、鎌倉からとか、ほんとにいろんなところから緑道を歩きに集まってくる。休みの日などは人がいっぱい来ます。みんな、口々にいいところだとほめてくれます。そんな時は、うれしいですね。」
茅ケ崎公園中央ひろばの手づくり花壇。
背後の河津桜は早春を告げてくれる。
「ニュータウン事業でできなかった、南と北の緑道をつなぎたいなぁ。かなりあ公園(早渕)から川を渡った向こうまでとか、矢先橋から八幡山、山崎公園ま でとか、これまで、「○○○のみち」と名付けて散策ルート設定しただけの道も、幅1mでもいいからセットバックしてもらって、買い上げるとかでちゃんとした歩道をつくるべきでしょう。」
「北川橋近くや茅ヶ崎の暗渠になってる水路を利用したり、荏田小の周辺での児童公園整備のような話があったら、それをきっかけにしてちゃんと田園風景を 残したみちづくりのイメージを絵にしておくとか、いろいろ考えたいことは山ほどあるけれど、今は茅ヶ崎町内会でいっぱいいっぱいです。」
そうはいっても、清水さんのまちづくりの「熱」はとても冷めるようなものではなさそうです。同じような「熱」をもつ人を惹きつけて、これからもニュータウンの理想を追求してくださいね。